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【文章翻譯】德川家康不想打關原之戰?關原之戰的研究(上)

一騎 | 2018-12-25 20:33:51 | 巴幣 8 | 人氣 846

首圖是《戰國BASARA 4 皇》當中與T.M.Revolution合作的家康裝扮。

幾個月前在刪垃圾郵件時發現的系列文章。
本篇(上)是描述德川家康在關原之戰時的動靜;
(中)是講石田三成的部分;
(下)則是敗戰後「敗部復活」的幾位武將。







德川家康不想打關原之戰?關原之戰的研究(上)
2017/8/25



在日本最為人所知的戰爭,想必是人稱「決定天下的戰爭」——「關原之戰」了吧。這場戰爭也是日本史上規模最大的裁員劇;戰後,全國超過三分之一,約630萬石的土地受到沒收。德川家康率領的東軍和石田三成的西軍在關原(今岐阜縣關原町)一決雌雄,戰勝的家康開創了持續約260年的江戶幕府。這場兩軍合計動員了16萬人力在戰場廝殺的戰爭,一般的點評都是:戰事起於目標獲取天下的家康引誘反對勢力,再幾乎按照其意圖般一口氣定下勝負。但是最新研究指出,這場戰爭其實是和家康所期望的發展大有出入,發動戰爭並非其本意。筆者在此檢驗了關原之戰時,家康的計算與誤算。

(原文)
⽇本で⼀番知られている合戦は、天下分け⽬の戦いとされた「関ケ原合戦」だろう。戦後は全国の3分の1を超え る約630万⽯が没収されるという⽇本史上最⼤のリストラ劇でもあった。徳川家康率いる東軍と⽯⽥三成の⻄軍が 関ケ原(岐⾩県関ケ原町)で戦い、勝利した家康は約260年続く江⼾幕府を開いた。両軍合わせて約16万⼈が激突 したこの⼀戦は、天下取りを狙う家康が反対勢⼒を誘引して引き起こし、ほぼもくろみ通りに⼀気に決着を付けた との評価が⼀般的だ。しかし最新の研究では、家康が望んだような展開とはかけ離れた不本意な戦いであったこと が指摘されている。「関ケ原」における家康の計算と誤算を検証した。



找條更安全的路好奪取政權
より安全に政権奪取できる道を



「像關原之戰那樣的大會戰,或許並非家康所望」——。國學院大學的堀越祐一講師分析道:「家康已經掌握了實權,理應該有一條路讓他更安全地奪取政權。」因為直到開戰為止,家康在權力鬥爭上呈現壓倒性優勢,政略進展順利。家康是在1598年8月豐臣秀吉去世後不久,便開始拉攏各方勢力以加強自己。與伊達、福島等地方有力大名的聯姻政策便是如此。秀吉在生前決定了「五大老」(家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)以及「五奉行」(三成、增田長盛、長束正家、前田玄以、淺野長政)以進行集團指導體制,但此體制從早期開始便逐漸形式化。刊行《毛利輝元》(ミネルヴァ書房)的作者,九州大學研究所特別研究者光成準治提到,從秀吉死去10日後,三成等四位奉行(淺野除外)與大老毛利便寫作「起請文」並結成同盟。其「假想敵」不在話下,就是首位大老的家康。

(原文)
「関ケ原合戦のような⼤会戦を家康は望んでいなかっただろう」――。国学院⼤の堀越祐⼀講師は「家康は既に 実権を握っており、より安全に政権を奪取する道があったはずだ」と分析する。それまでの権⼒闘争に圧勝し政略が順調に進んでいたからだ。家康は1598年8⽉に豊⾂秀吉が死去した直後から多数派⼯作を始めたという。伊達、福島ら地⽅有⼒⼤名との婚姻政策だ。秀吉が⽣前に決めた「五⼤⽼」(家康、前⽥利家、⽑利輝元、上杉景勝、宇 喜多秀家)と「五奉⾏」(三成、増⽥⻑盛、⻑束正家、前⽥⽞以、浅野⻑政)による集団指導体制は早い時期から 形骸化していった。「⽑利輝元」(ミネルヴァ書房)を刊⾏した九州⼤学⼤学院の光成準治・特別研究者は、秀吉 死去から10⽇後に三成ら奉⾏4⼈(浅野を除く)と⼤⽼の⽑利が「起請⽂(きしょうもん)」を作成して同盟した 点を指摘する。「仮想敵」はもちろん、⼤⽼筆頭の家康だった。



《秀吉死後的權力鬥爭與關原前夜》(秀吉死後の権⼒闘争と関ケ原前夜,日本史史料研究會)的作者水野伍貴,將在1599年閏三月的「石田三成襲擊事件」定位為家康派所進行的「實質上的軍事政變」。三成並不只是遭到加藤清正與福島正則等七將意謀不軌。據點的大阪城也遭到片桐且元等「隱藏家康派」佔領,使得三成派無以入城。至此為止家康都一直被認為是作為一個公正的第三者來調停對立,但其實清正等七將就是在家康的統領之下。家康和三成派的毛利、上杉等人之間達成和解,三成則不得不引退。此時從秀吉死去後才過了大約半年。

(原文)
「秀吉死後の権⼒闘争と関ケ原前夜」(⽇本史史料研究会)の著者、⽔野伍貴⽒は、99年閏(うるう)3⽉の 「⽯⽥三成襲撃事件」を家康派らによる「事実上のクーデター」と位置づける。三成は加藤清正、福島正則ら7将 に狙われただけではない。拠点としていた⼤阪城も⽚桐且元ら「隠れ家康派」に占拠され三成派は⼊城できなくな っていた。これまでは家康が公正な第三者として対⽴を調停したとされてきたが、実は清正ら7将は家康の統制下 にあったという。家康と三成派の⽑利、上杉らとの間で和睦がまとまり、三成は引退を余儀なくされた。秀吉死去 からわずか約半年後だ。



家康的策略方針是為「各個擊破政敵」
家康のポリシーは「政敵を各個撃破」



家康在同年九月令前田利長失去職位,還又進到了名義上最高權力者的豐臣秀賴的大阪成,以類似「挾天子以令諸侯」的形式掌握獨裁大權。秀吉死去後約一年,坊間謠言家康「統一了天下」。家康派大名在七日間還受加封了合計13萬石。對大名加封,本來是只有秀賴才能許可的最高權限。

(原文)
同年9⽉には前⽥利⻑を失脚させた。さらに名⽬上の最⾼権⼒者である豊⾂秀頼の⼤阪城に乗り込み、幼君をたてる形で事実上の独裁権を握った。秀吉死去から約1年、家康が「天下様になった」と世間で噂されたという。家 康派⼤名が7⽇間で合計13万⽯加増されたこともあったという。⼤名への加増は、本来秀頼にしか許されない最⾼ レベルの権限だ。



如同「杜鵑不啼,則待之啼」所表示,家康給人的印象是「忍耐」、「擅長伺機而動」。但時年五十八歲的家康卻快手快腳地贏得了權力鬥爭。另一方面,水野氏也注目於其堅實的各個擊破戰略,他提到「家康貫徹了一次使得一個人丟官失勢的方法。」三成下台時,家康知道有毛利輝元在支援,便說「(家康和輝元)今後情同兄弟」,締結了友好關係。在前田家和上杉景勝傳出合作說法時,也是鎖定利長而不過問上杉。打倒上杉要等到1600年六月才開始。在「會津征伐」當中加入德川軍並包含在豐臣家諸大名的正規軍,並且擔任遠征準備的有增田、長束和前田三位奉行。當時不少人都有一個預想,就是只要家康離開畿內,本以屈服的反對派可能會起事反抗;此事也被記錄在身居日本的朝鮮人日記。當初該記述者被認為是加藤清正。

(原文)
「泣くまで待とうホトトギス」の句が表すように、家康には「忍耐」「熟柿(じゅくし)作戦が得意」とのイメ ージが強い。しかし当時58歳の家康は素早く動き権⼒闘争に勝利した。⼀⽅で「政敵を1度に1⼈ずつ失脚させる ⽅法を貫いた」と⽔野⽒は⼿堅い個別撃破の戦略にも注⽬する。三成失脚時には⽑利輝元が⽀援しているのを承知で「(家康と輝元は)今後は兄弟の間柄」と友好関係を結んだ。前⽥家と上杉景勝との連携説があった時も、利⻑ に標的を絞り上杉は不問にした。その上杉打倒は00年6⽉まで待って開始した。「会津征伐」で徳川軍に豊⾂家諸⼤名を加えた正規軍で、遠征の準備を担当したのは増⽥、⻑束、前⽥の3奉⾏だ。家康が畿内を離れれば屈服して いた反対派が蜂起するだろうという予想は当時幅広く共有されており、⽇本にいた朝鮮⼈の⽇記などにも記されて いる。当初は加藤清正だと思われていたようだ。



或許家康也當然已經料到反對派舉兵的可能性;可是「他樂觀地以為規模不會擴大」,水野氏認為。實際上,最初消息頂多是三成和大谷吉繼起事。第一個誤算就是毛利輝元參戰。一般對輝元印象較深者,就是由於他性格優柔寡斷,因此被周圍推舉出來擔任西軍總大將。可是光成準治指出「輝元自身是很積極的」。光成氏說到,從輝元歸鄉至中國地方後又即刻返回畿內的速度來看,「他已經和三成等人事先討論並進行準備的可能性很高。」輝元於七月17日進入大阪城,也向四國、中國地方出兵。

(原文)
家康も当然、反対派挙兵の可能性は折り込み済みだっただろう。しかし「⼤規模にはならないと楽観していた」 と⽔野⽒はみる。実際、最初は三成と⼤⾕吉継が蜂起(7⽉12⽇)した程度と伝わっていた。第1の誤算は⽑利輝 元の参戦。輝元には優柔不断な性格のため周囲にすすめられるまま⻄軍総⼤将に担ぎ上げられたとの印象が強い。 しかし光成準治⽒は「輝元⾃⾝が積極的だった」と指摘する。中国地⽅に帰国していた輝元がただちに畿内に戻っ た早さから「事前に三成らと相談・準備していた可能性が強い」と光成⽒。7⽉17⽇に⼤阪城へ⼊り、四国・中国 地⽅へも出兵した。



德川軍團一連串的誤算
徳川軍団、誤算の連鎖



宇喜多秀家也是積極參與。由於不久前家中才發生紛爭,他便從一開始將可能不會贊成自己方針的家臣們排除在外,相當謹慎。秀家在事前就已經參加謀議的可能性很高。光成氏提到「西軍首腦們都有一個共識:假如不在上杉健在時對抗家康,接下來就輪到自己完蛋。」

(原文)
宇喜多秀家も積極的に参加した。直前に家中の内紛があったことから⾃分の⽅針に賛成しそうもない家⾂はあらかじめ外しておくという周到さだった。事前の謀議に加わっていた可能性は⾼い。「上杉が健在なうちに家康に対 抗しないと、次は⾃分たちがやられる番という認識が⻄軍⾸脳には共有されていた」と光成⽒は話す。



日本國際文化研究中心的笠谷和比古名譽教授在《德川家康》(徳川家康,ミネルヴァ書房)提到「增田長盛等三奉行加入三成方,是一個大誤算。」在家康掌握獨裁大權的約一年間,三奉行忠於家康,處理全國行政事務。三成舉兵後不久,三奉行和淀殿都還是站在家康這邊,將寫有「希望鎮壓不穩情勢」的書狀送到遠征處。但是三成等人說服三奉行,並且確認到毛利也將參戰後,他們判斷情勢對西軍有利。三奉行向全國發送對家康的彈劾狀,家康被剝奪公家權力者的立場,反而落得叛徒之名。這談不上各個擊破。兩大老、四奉行(包含三成回歸),家康同時與他們為敵了。

(原文)
⽇本国際⽂化研究センターの笠⾕和⽐古・名誉教授は「徳川家康」(ミネルヴァ書房)で「増⽥⻑盛ら3奉⾏が 三成側に付いたのが⼤誤算だった」としている。家康が独裁権を握っていた約1年間、3奉⾏は家康に忠実に従って 全国⾏政を処理していた。三成挙兵直後は、3奉⾏も淀殿も家康寄りで「不穏な情勢を鎮圧してほしい」との書状 を遠征先に送っている。しかし三成らが説得し、⽑利参戦なども確認するに⾄って⻄軍有利と判断した。3奉⾏は 家康に対する弾劾状を全国に発送、家康は公的権⼒者としての⽴場を剥奪され、⼀転「叛徒(はんと)」の⽴場に 落とされたという。各個撃破どころではない。2⼤⽼・4奉⾏(三成復帰を含む)を同時に敵としたわけだ。



家康在八月5日回到江戶城,先派遣嫡子秀忠率德川主力軍三萬八千經中川道發兵,但是自己則留城一個月,觀望情勢。笠谷名譽教授認為「或許家康不清楚,福島正則等因為義務性從軍而跟隨的武將會如何出招。」原本對進行到清洲城(愛知縣清須市)的福島等豐臣系武將送使者催促與西軍積極開戰,本應該是「家康要查明誰和東軍分道揚鑣的一流作戰」(笠谷);可是從此開始,德川軍團開始了一連串的誤算。

(原文)
家康は8⽉5⽇に江⼾城へ戻り、嫡⼦・秀忠の徳川主⼒軍3万8千を中⼭道経由で先発させるものの⾃⾝は約1カ⽉ 滞在し情勢を⾒守った。笠⾕名誉教授は「福島正則ら義務的従軍で付き従ってきた武将がどう出るか分からなかっ たからだろう」とみる。清洲城(愛知県清須市)まで進んだ福島ら豊⾂系武将に積極的に⻄軍との開戦を促す使者を送ったのは「東軍からたもとを分かつ者をあぶり出す家康⼀流の作戦」(笠⾕⽒)のはずだったが、ここから徳 川軍団の誤算の連鎖が始まった。



因挑釁式的督戰言詞而憤慨的福島、池田輝政等東軍武將,一股蠻勁地花半日將以堅固聞名的歧阜城攻陷。軍隊氣勢如虹,甚至再差一點就要攻到三成等西軍首腦聚集的大垣城。督促生效太過,這樣下去連家康和秀忠都沒有參加,東西決戰就要分出勝負了,於是家康便開始害怕。要是真這樣結束了「家康會失去戰後的立足之地,並且將失去政治上的發言權」(笠谷)。
由於事情進展快得超乎家康預期,他便慌忙在東海道做強行軍。當然他也送出書狀,要前線諸將自制,別馬虎挑起戰端。9月1日從江戶出發的德川軍是一支約為三萬三千人的大軍。不過一萬石以上的大名級別者已經加入了秀忠軍,家康這邊是以守衛家康,且性格上防衛性強的旗本為中心。家康在14日到達最前線,成功迴避了「家康缺席的關原之戰」這般最糟糕的情況。

(原文)
挑発的な督戦の⾔葉に激⾼した福島、池⽥輝政ら東軍の武将は、勢いにまかせて堅城で知られる岐⾩城を半⽇で 陥落させてしまう。さらに三成ら⻄軍⾸脳が集まる⼤垣城まで、⽬と⿐の先の距離まで進撃した。督促の効き⽬が あり過ぎ、このままでは家康も秀忠も参加しないうちに東⻄決戦が決着してしまう恐れが⽣じてきたわけだ。そう なれば「家康は戦後における⽴ち位置を失い、政治的発⾔権はなくなる」(笠⾕⽒)。
家康にとっては予想を上回る早い展開であったため、慌てて強⾏軍で東海道を進んだ。むろん前線の諸将には不⽤意に戦端を開かないように⾃制を促す書状も送った。9⽉1⽇に江⼾を出発した徳川軍は約3万3千の⼤軍。ただ1 万⽯以上の⼤名クラスは秀忠軍に加わっていたため家康を守る防衛的な性格が強い旗本中⼼だったという。最前線 に到着したのは14⽇で「家康抜きの関ケ原」という最悪の事態は回避できた。



勝因是家康「堅毅不拔的強大」
勝因は家康の「ぶれない強さ」



然而這次是秀忠軍來不及趕上。由於當時的傳令速度問題,秀忠完全不可能知道家康切換計畫要速戰速決;他遵循舊有方針進攻上田城並陷入苦戰。結果關原之戰,實際上就變成了豐臣系大名們分開東西兩軍在戰鬥。

(原文)
ただ今度は秀忠軍が間に合わなかった。当時の命令伝達速度の問題から、家康が早期決戦に切り替えたことなど 知るわけもなく、秀忠は従来⽅針通り上⽥城を攻めて苦戦などしていた。結局関ケ原の戦いは、実態が豊⾂系⼤名 同⼠が東⻄両軍に分かれての戦闘になった。



因戰後處理而從西軍沒收來的630萬石當中,大約八成的580萬石被分配給了東軍的豐臣系武將。在開戰當初「德川四天王」井伊直政一馬當先殺入敵陣的故事,有可能是想要在戰場上存在感稀薄的德川軍也有些功績傳世。

(原文)
戦後処理で⻄軍から没収した約630万⽯のうち、約8割の580万⽯が東軍の豊⾂系武将に配分された。開戦当初に「徳川四天王」の井伊直政が抜け駆けしたというエピソードは、戦場で 存在感が希薄な徳川軍のアピールを狙ったのかもしれない。



另一方面水野氏指出,「關於關原之戰的佈陣可說是各說各有理,沒有定論;現狀下除了小早川秀秋在松尾山,其他都幾乎不得而知。」水野氏說到「背後原因,是我們在古戰場的挖掘調查當中,連一顆鐵砲子彈都沒挖著。」而家康為了促使小早川反叛而射擊鐵砲這一有名段落,有說法指出可能其實為後世創作,支持的研究者也不在少數。可是笠谷教授則是持反方意見,「並非聲勢浩大的一齊射擊,而是佯裝誤射的警告射擊。」笠谷教授認為家康是戒慎警備地在催促參戰。

(原文)
⼀⽅で「関ケ原合戦の布陣については諸説⼊り乱れた状態で、⼩早川秀秋が松尾⼭にいたこと以外ほとんど分かっていないのが現状」(⽔野⽒)との指摘もある。⽔野⽒は「古戦場の発掘調査で鉄砲の弾が1つも出てこなかったなどが背景にある」という。⼩早川の裏切りを促すため家康が鉄砲を撃ちかけたとの有名なエピソードも、実は 後世の創作ではないかという説が出され、⽀持する研究者も少なくない。しかし笠⾕⽒は「華々しい⼀⻫射撃では なく、誤射を装った警告の鉄砲射撃だった」と唱える。家康は細⼼の注意を払いながら参戦を促していたという⾒⽴てだ。



雖然誤算連連,但最終家康還是贏得勝利,其要因為何?筆者認為其中之一是家康集中精神在中央政局的動靜,奪取政權的目標始終沒有動搖。毛利輝元意圖進攻四國、中國;上杉景勝不是對付江戶的德川軍,而是往山形地方拓展勢力。輝元割讓領土給養子,景勝並未整頓自家領土,兩邊都有內部問題,並且非常關心於擴大領土。水野伍貴氏說「相對於毛利和上杉都無法只集中於政權中樞的問題,家康能夠集中火力在奪取權力,就相當重要。」僅只傾注力量在政權問題上的,除了家康,說不定就只有三成。三成為了做足關原之戰的戰備,花光了他的積蓄。包含在九州活躍的黑田如水(譯註:黑田官兵衛),所有人預期就算沒有到戰國時代再次上演,也應該是相當程度的長期戰。只有從江戶發軍後的家康訂定目標在速戰速決。

(原文)
誤算続きであったにもかかわらず、最終的に家康が勝利できた要因はどこにあったのか。1つは家康が中央政局の動きに集中し、政権奪取の⽬標が終始ぶれなかったことにあるだろう。⽑利輝元は四国・中国への侵攻を図り、 上杉景勝は江⼾の徳川軍ではなく⼭形地⽅へ進出したりしていた。輝元は養⼦への領⼟割譲、景勝は⾃領の未整備 という内部の問題があり、領⼟拡⼤が⼤きな関⼼事だったようだ。⽔野伍貴⽒は「⽑利も上杉も政権中枢の問題のみに集中できなかったのに対して、家康は権⼒奪取に集中できたことは⼤きい」としている。政権問題のみに注⼒ していたのは、家康を除けば、あるいは三成だけだったかもしれない。
三成は関ケ原の戦備のために蓄えを使い切ったという。九州で活躍した⿊⽥如⽔も含め、みな戦国時代の再来まではいかないとしても、相当な⻑期戦を予想 していたのだろう。江⼾進発後の家康だけが短期決戦を指向していた。



再來光成準治氏指出「關東250萬石的經營順利,省得家康歸鄉,事關重要。」秀吉死後,有力大名相繼為了領國經營而歸去。只有家康繼續滯留在京都、大阪一帶。宇喜多秀家引發了家臣們二分對立的「宇喜多騷動」;島津義久、義弘忙著解決重臣的「庄內之亂」。人們也認為,在關原之戰十年前家康的關東轉封,是秀吉的計畫奏效,好讓家康遠離畿內。家康自身搞不好本來也不情願離開原先據點的東海.中部地方。可是水野氏說到,「家康讓他移往關東一事起了正向作用。」「由於和原來土地間的連結受到重制,家康就可以重新組成家臣團。井伊直政、本多忠勝和榊原康政都被給予眾多領土,家康開始在全國水準上嶄露頭角,就是這個時候。」(水野氏)家康讓非自願的異動對自己有所助力,最終成功地逐漸增長他在中樞的存在感。
(松本治⼈)

(原文)
さらに「関東250万⽯の経営が順調で省みる必要がなかったことが⼤きい」と光成準治⽒は指摘する。秀吉死後、領国経営のため帰国する有⼒⼤名が相次いだ。家康だけが京都・⼤阪に滞在し続けた。宇喜多秀家は家中を⼆分する「宇喜多騒動」を引き起こし、島津義久、義弘は重⾂の「庄内の乱」の解決に追われていた。関ケ原の10年 前になる家康の関東転封は畿内からより遠ざけたい秀吉の計算が働いたともいわれる。家康⾃⾝も本拠地の東海・ 中部地⽅から離れるのは当初本意ではなかったかもしれない。しかし「家康は関東へ移ったことをプラスに作⽤させた」と⽔野⽒は⾔う。「従来の⼟地とのつながりがリセットされたことで家⾂団の再編成が可能になった。井伊直政や本多忠勝、榊原康政が多くの領地を与えられ、全国レベルで頭⾓を表し始めたのはこのタイミングだった」 (⽔野⽒)。不本意な異動をプラスに変え、結果的に中枢での存在感を⼤きくしていくことができたという。
(松本治⼈)




文章的總工作時間大概花了五個多小時。要不是自動選字我應該能再快一些。
不少沒主詞的句子讓我判讀有些困難,這點是要繼續補足的地方。

創作回應

紅染憐華
沒,只是單純想到轉封領地結果磨合不佳的佐佐成政。
2018-12-29 20:21:51
一騎
嗯嗯......這個比較真的蠻有趣的。家臣、當地風土,還有為君者自己的手腕和目標,我能說是上面的差異讓兩邊的結果大有不同,不過細部就真的不知道了。
2018-12-29 20:28:17
紅染憐華
想來太閣所具備的權威之強勢,無論是蒲生轉封會津、上杉移封米澤、伊達改易、乃至家康遷至關東等等,能夠一次拔除當地國人豪族與土地連結的強大行政力量與威望就覺得可怕。
2018-12-29 20:41:24
一騎
嗚哇[e17]太閣真的也太強了。對戰國歷史一直只有模糊印象,沒想到除了家康還有其他人被拔到其他地方。
2018-12-29 20:49:36
紅染憐華
欸欸欸,那為什麼會選這類文章翻譯,原本以為是喜歡戰國史所以想分享文章wwwwww
2018-12-29 21:03:38
一騎
呃,你也知道,有些人是喜歡某樣東西,但就只停留得很淺層,我就是其中之一[e8]
我是喜歡戰國史,但是看過的東西只停留在橫山光輝的漫畫和幾本叫「古木」的人寫的書。再來印象中就是FAMI通上的一些專欄文章。
很多細部的東西都不清楚。
2018-12-29 21:14:30
紅染憐華
啊,了解,就像是有些時候隨手翻翻覺得論點很有趣,就會想節錄分享出來的感覺。我懂,我知道的也不多。
2018-12-29 21:17:10
一騎
就是啊[e16]
因為在玩御城收藏,剛好又看到這系列文章,就想要分享出來。
2018-12-29 21:37:54
一騎
不過,我能問一下你看過哪些書或網站嗎?
秀吉把除了家康外的誰分封到哪裡,這種訊息實在不像主流媒體或娛樂向媒體看得到的內容。
2018-12-30 00:52:34
紅染憐華
主要是日本維基因為下面滿多註解的所以我想公信力應該很高。
像奥州仕置、九州国分、四国国分等等條目
2018-12-30 01:01:52
一騎
真虧你找到那些條目[e17]
沒什麼契機的話,我還真的不會去看。
2018-12-30 01:15:47
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