佐々木:その頃、初音ミクはラッパーのpinokoさんとかジャズピアニストの佐藤允彦さん、シンガーのさとうもかさんなど、異ジャンルの方とのセッションが多かったんですが、その中で入江さんと出会いました。音楽ジャンルにとらわれない感じとか、様々なミュージシャンの方々とかと交流が有り、異種格闘技戦みたいなことも楽しんでくれそうだなと思って、お声がけしました。
佐佐木:那時候初音未來是和饒舌歌手pinoko以及爵士鋼琴家佐藤允彥,歌手SATOMOKA等不同類別的人一起聚會,其中與入江先生相遇了。不被音樂類別困住的感覺,和各種音樂人有交流,就像異種格鬥技戰般地有趣,所以就試著和他聊聊了。
―さとうもかさんと初音ミクのデュエットの試みも、きっかけのひとつになったんですね。
―SATOMOKA和初音未來的輪唱嘗試為起因之一呢。
入江:そうなんです。その後もご縁があって、さとうもかさんとミクさんが一緒に歌う“スキップ”という曲も制作させていただいた。そうしたら、頭で考えていたのとは違ういろんな問題が生じてくるんですよね。
入江:是啊。之後也有緣分製作了SATOMOKA和miku一起歌唱的“SKIP”。製作時,發生了用邏輯去想也不想不到的問題。
―どういう問題でしょう?
—比方說呢?
入江:ボカロとかトークボックスって、人間の声に対するカウンターとして存在している部分があるんです。まったく失礼な意味じゃないんですけど、カニに対するカニカマのようなものというか、人じゃないけれど人間らしいというところがユニークだし、ポイントになっている。だから、「人とボカロと伴奏」となると、「人と伴奏」とか、「ボカロと伴奏」とは、全然聴こえ方が変わってくるんです。相対的な見え方が変わってしまって、そこが難しい。でも逆に、もしそこが自然に聴こえるようになったら、かなり面白いのではないかという興奮もありました。
入江:V家或是Talk Box都是存在與人類聲音相反的部分。並非失禮的說法,就像螃蟹跟蟳味棒的關係,不是人卻像人類的獨特性的重點部分。因此,「人和V家和伴奏」來說,「人與伴奏」和「V家和伴奏」聽起來不太相同。變成相對性地看法,要去理解很困難。不過反過來,如果可以讓它聽起來很自然的話,是不是會變得很有趣地這樣的興奮過。
異なる世代やポジションの混ざり合いが、シーンを豊かにする
不同世代和立場互相混和,變得豐富的場面
―この先の『プロジェクトセカイ』についてもお伺いしたいと思います。ゲームはどんどん更新していくものではあると思いますが、その先にどんなことを考えてらっしゃいますか?
—我想訪問有關『世界計劃』未來的規劃。遊戲會持續更新,在那未來有任何打算嗎?
近藤:まずはシンプルにゲームとして面白くなきゃダメだというのはあります。新しい楽曲で遊べることと、ストーリーが追加されていくこと。この2つはずっとやり続けなければいけないというのが大前提ですね。その上で、どういった付加価値を付けていけるかということも、今は言えないですけれど、いろいろと考えています。やっぱり、クリエイターさんと持ちつ持たれつみたいな関係でいたいですね。『プロジェクトセカイ』と一緒にやることがクリエイターさんにとってもプラスになる関係をうまく築いて、中長期的に音楽に還元していきたい。
近藤:首先必須單純地讓玩遊戲的玩家覺得有趣。遊玩新曲和新增故事。這兩點必須要持續下去為大前提。在那之上還會附加怎樣的附加價值現在還不能說,我們也考慮了很多方案。果然還是希望跟創作者們成為互相扶持的關係呢。建立起對一起製作『世界計劃』的創作家也能是加分的關係,中長期的話能夠還元到音樂上。
僕はボカロ黎明期からいたし、ボカロ曲を作っていた人間でもあるので、当時いろいろな大人と接してきたんです。その中には僕らの活動をシンプルにサポートしてくれたり、将来性を考えたりしてくれる人だけでなく、短期的な利益だけを見てる人もいた。そういうのは嫌だったんですね。だから30代になって大人の側に立った自分は、そうではありたくない。若い世代のクリエイターにとっても「『プロセカ』があっていいことがあったな」と思えることが生まれていかないと嫌だなっていう気持ちはあります。
我從V家黎明期就有接觸,並且創作過V家曲,當時也接觸過各種大人。其中給予我們的活動簡易地支援,替我們思考未來性的人也有,不過也有只看到短期利益的人也存在。我不喜歡那種人呢。因此30歲後站在大人立場的我,也不想成為那種人。對於年輕世代的創作家來說「有『世界計劃』就有好事呢」這樣的想法,如果做不到就會變得很討厭的感覺。
―佐々木さんはどうでしょうか。
―佐佐木先生覺得如何呢?
佐々木:『プロセカ』という新しいフレームの中で、ボカロ曲の再発見や再解釈が進んでいけばいいなと思います。今まではどうしてもネットで発表された順に盛り上がるようなところもあったし、時間軸上で、どんどん作品が増えていて、ニコ動にもYouTubeにも曲があふれかえっている。そこには見知らぬよい楽曲と出会う喜びもあるけれど探すのは孤独で大変で。他方、新規参入の若い世代には、探すコストを取っ払って、カジュアルな楽しみ方を提示できないと、いかに作品が優れていても耳に届かないというもどかしさがあったんです。
佐佐木:『世界計劃』這新的框架中,如果可以再發現或再解釋V家曲的話對我來說是件好事。至今不管如何都會隨著發表順序而紅起來,在時間軸上不斷增加的新作品,在nico動畫或YouTube上歌曲多了非常多。在動畫網站上能遇到不知道的歌曲很開心但找尋是非常孤單又辛苦的。其他方面,新人參加的年輕世代裡,不提供出把找尋花費時間除去輕鬆地享受方式的話,在怎麼好的作品也傳達不到的煩悶感。
そういう中で、『プロジェクトセカイ』では、声優さんと初音ミクによるバージョンを紹介していくことが、今の若い世代の方の価値基準や感覚に合うような、ボカロ曲の新たな入り口として機能していると思います。あくまでひとつのではありますが。あと、同じような理由で『プロジェクトセカイ』をCINRAさんのようにゲームの専門媒体以外のメディアに取り上げていただくということにも価値があって。
在那之中,透過『世界計劃』聲優和初音未來有各自的版本這樣介紹歌曲。就和現在年輕世代的價值基準或感覺合得來,有著V家曲新入口的功能。雖然說這只是其中一個,不過也有像相同理由透過CINRA等介紹遊戲專門媒體以外的媒體,也能提及到『世界計劃』的價值。
―というと?
—也就是說?
佐々木:たとえば、本作に関わってくださるミュージシャンは増えていて、日本のアンダーグラウンドの文脈を持ってる方や、もともとジャズシーンで活躍されているバンドの方もいる。さきほどと重複しますが、そういう方がお隣さんとして演奏などにも関わっていらっしゃるので、かなりイレギュラーな奥行きも生まれていると思うんですね。旧来のネット発のカルチャーは、文脈ではなくネット周辺で閉じやすい部分もあると思っていて。
佐佐木:例如與本作合作的音樂人越來越多,有日本地下音樂經驗的人,也有原本活耀在爵士樂的樂團成員。跟之前稍微重複一次,這些人就像鄰居一樣需要演奏時就會產生關連,因此音樂人不規則又帶有深度的活著的感覺。過往從網路誕生的文化不會照著邏輯晉升,而是在網路文化周邊容易收束的部分也存在。
今はYOASOBIさんたちのおかげでブームの勢いがあるから、オーバーグラウンドになってきていると思うんですけど、そのうちボカロの影響を受けた「ポスト・ボカロ」の動きが活発化してボーダレスになることで、ボカロという先入観が、ネットによる作品発表の効果性や、風通しのよさ、独特のデフォルメ感、型にはまらないアイディアの多様さという優位点に移っていく。『プロセカ』のようなメディアミックスのアドバンテージもあるし、次世代のアートや音楽の文脈へのフィードバックも増えると思います。
現在像託YOASOBI他們的福人氣不斷地上漲,我以為他們永遠都只會在地下音樂活動。但是之後受到V家影響「後V家」的動態被活性化且變得無界線,V家的先入觀會根據網路上發表作品的效果性,容易通風、獨特的變形感、不被形式所拘束的想法多樣化的優異點持續進化。如同『世界計劃』的Media Mix簡易的好處,次世代的藝術家或音樂的歷史給予的回饋也會增加。
今のネット世代のクリエイターの方は、いろんな音楽をザッピングして聴くことができる人たちだと思うんですよね。僕は1990年代に思春期を過ごしてきたんですけれど、その頃はロックを聴く人はロックばかり、ヒップホップを聴く人はヒップホップばかり、みたいな壁が今よりあったような印象があります。それが今は減ってきて、スマホでなんでも聴けるし、感覚的にいいものはいいと思える人たちが増えているように思います。その人たちに新しい日本の音楽カルチャーの一大手法としてボカロからポスト・ボカロまでを担ってもらえるのは、すごくいいんじゃないかと思うところがあります。
現在網路世代的創作家們也接觸過各式各樣的音樂。我在1990年代度過青春期,那時候聽搖滾的人只聽搖滾,聽流行樂的人只聽流行樂,比起現在更如同牆壁互相隔開的印象。現在那道牆就越來越少,用手機的話什麼音樂都能聽,感覺不錯的就會聽的人越來越多。交給那些人聽新日本音樂文化其中之一的V家到後V家,我覺得這樣是再好不過的事情了。
―入江さんとして今後の『プロジェクトセカイ』に期待することや、関わっていて印象深いことについては、どうでしょうか。
—入江先生未來對『世界計劃』的期待或是參與製作後印象最深的事情是?
入江:自分としては、書き下ろし曲ももちろんですが、実は既存曲こそ関わっていて楽しいんですね。各時代の多くの人が感動したボカロ曲を今聴くと、自分の美意識が試されるようなところがある。自分の中で面白いと思える狭い範囲の美意識ではなくて、曲に触れるたびに「この味はあんまり知らないけど、みんなが美味しいって当時言っていたってことは、美味しいはずだ」と思って1曲1曲を味わいながら聴くと、徐々に自分の味覚が広がっていくような楽しさがあるんです。
入江:對我來說新創曲不用說,其實也能替舊曲編曲很開心呢。感動各時代許多人的V家曲現在聽起來,感覺像是在挑戰自己的美感。並非我自己覺得有趣小範圍的美感,而是每次接觸到歌曲時都覺得「這個味道我沒碰過,當時大家覺得好吃的話,味道一定不錯」地細細品嘗每首歌,逐漸地自己的味覺也變得更廣一般地樂趣。
ゲームって、未来の音楽家も含めてたくさんの人たちにとっての音楽との出会いのきっかけになると思うんですね。聴こうと思って音楽を聴くというよりも、ゲームをしていてたまたま入ってきた音だと思うんですけれど、そこに自分なりの手紙や希望のようなものをちょっと乗せたい。日本の未来を背負う人たちの耳に届くものだという使命感は勝手に持っています。あとはさっき言ったような、アンダーグラウンドとメジャーといったカテゴリーをわざわざ強調する必要があるかはさておき、あまり繋がるイメージがない人同士が思い切りひしめき合いながら動いてる状態を、今まさにすごく体感しているので、集中して1秒1秒関わりたい思いはあります。なにが起きるか分からない面白さがありますね。
遊戲是包含未來的音樂家以及對許多人來說接觸音樂的好起頭。比起想聽就去聽的音樂,透過玩遊戲偶然聽到的音樂,我想把屬於我的信或希望寄託在裡面。背負日本未來的人們能夠傳達到他們的耳朵裡這種屬於我的使命感。還有剛說過的,地下音樂和出道歌手的類別特別強調的必要性先不說,不太有關連的人們盡力地互相碰撞的狀態,現在就有非常實際體驗到的感覺。所以我每一秒都想要參與到這樣的音樂,因為不知道會發生什麼有趣的事呢。