思いやりの熱量/前島亜美「まごころコトバ」㉞
內心的情熱
言葉の持つ力。
言語是有力量的。
会話をする中で、ひとつの言葉から読み取ることが、とても多くある。
在日常會話中,甚至在字裡行間,可以接收到非常多的訊息。
この状況で“この言葉を使う”ということは、それほどの思いがあるんだな。こういう言い方をするということは、それほどの出来事なんだなと。
人會在特定的情況下去“使用那個詞”。用那樣的方式所說的話,代表他當下就是那樣的感受。
今でこそ、人それぞれ言葉の使い方が違い、どのくらいの思いでその言葉を発しているのかも違うのだと分かるようになったが、それを初めて痛感したのは小学校4年生の時だった。
如今,我知道每個人說話的方式各有千秋,在言論上所下的功夫也有所不同。我第一次敏銳察覺到這件事,是在國小四年級時。
クラスの仲の良い女の子4人でバレンタインに友チョコ交換をすることになった。
那時我與班上其他四個關係要好的女孩子約好要在情人節那天互相交換友情巧克力。
パティシエにあこがれ、お菓子作りも大好きだった私は、約束できたことがすごくうれしく、友達みんなとも「ほんとうに楽しみだね!」と話していた。
憧憬著甜點師這個職業、熱愛做甜點的我,對於這個約定感到非常高興,並與其他朋友互相說著“真的非常期待呢!”這句話。
当日ウキウキでチョコレートを何種類か作り、かわいいうさぎのラッピング袋に入れて、学校から帰ったあとに、チョコレート交換をした。
情人節當天,興奮地做了好幾種巧克力、裝進有著可愛兔子外觀的包裝袋裡,準備在放學後與朋友互相交換。
何日か経ったあと、交換した友だちから「あみちゃんのチョコレート、なんかいっぱい入ってたからびっくりしたし、なんかすごくプレッシャーだった」とさらっと言われた。
過了幾天,與我交換的朋友們說道:感覺小あみ做了一堆巧克力放進袋子裡,嚇死我了,有點沉重呢…
なんの悪気もなかったと思う。確かに私が張り切りすぎて作りすぎたのかもしれない。
雖然她們並沒有惡意,或許我真的是下了太多功夫去做了。
ただ「楽しみ」という同じ言葉で表せる“気持ちの大きさの違い”に当時ショックを受け、その子に対しても悪いことをしてしまったなと反省したのを覚えている。
但是我其實對於「好期待!」這詞的份量在說出的當下,其實跟別人並不相同時,是相當震驚的,而且那孩子並不覺得她對我說的話錯在哪裡。
同じ言葉を使っていても、みんなが同じ気持ちではないということを知った。
這下我了解了,就算使用相同的字句,每個人對於該詞所抱持的想法其實並不一樣。
振り返れば、これが集団生活をする中での最初の混乱だったと思う。
回想起來,那是我第一次在團體生活中感到不適應與混亂。
そこから人との関わり方が変わってきた。言葉を使うことに慎重になり、人の気持ちを考え言葉を選んで話したり、行動をするようになった。
那件事之後,我對待別人的態度有了變化。變得更加謹慎。在具體行動前,會考量別人的心情,去選擇所要說的話。
また人の言葉に対しても、相手が想定しているより自分が深く受けとり過ぎないように、注意深く聞くようになった。
為了避免過度解讀他人所給予的資訊,我學會了仔細地去傾聽。
集団行動をしていて「頑張ります」と言うなら全員が本当に「頑張る」のだと思っていたし、「信じる」と言うのなら、全員が本当に「信じている」のだと思っていた。
在團體生活中,如果有人說「我會努力」時,我就會認為全部人都是這樣想的;如果說「我相信你」時,我就會認為其他人也是這麼思考的。
具体的にどのくらい頑張れるかなどは人それぞれ違うと思うが、少なくとも言葉にするのなら、それなりの努力をするという約束のようなものだと思っていた。
但我認為每個人的付出份量並不一樣,但只要他們用言語去表達他們有多努力去做時,我就當作他們其實有遵守當初的約定了。
そうじゃないこともあると知った時、“熱量”という言葉が頭に浮かんだ。
然而,假如我又去思考,其實情況並非都是這樣時,“言語的溫度差”又會浮現在腦海中了。
大切にしているとか、信頼しているとか、好きだとかも同じではないかと思う。
在此同時,我何嘗不會想去珍惜、信賴並重視我身邊的人呢?
友人と自分が互いに抱いている思いが100%ぴったり同じことはないと分かっていても、自分が相手を大切に思っている気持ちよりも、相手から見た私はそこまでじゃないのかもしれないと思うと、臆病になってしまう自分がいる。
即便我知道我不會跟朋友對彼此的感情100%相通,但我還是會害怕他們會認為我對他們的重視程度並非他們所想的。
生きる中で一番大切にしたいのは思いやりだ。
而活在這世界上,我認為最重要的是“同理心”。
人付き合いが得意でないと思うのは、どこか信じきることができないのは、人と関わった際にふと感じる“思いやりの熱量の差”に微かな寂しさを覚えているからではないかと思った。
我覺得自己並不擅長交際的原因是,在與人接觸後才感覺到“心中所想的溫度差”的差距這件事。這使我會感到些許的落寞感。
自分ばかり人にあこがれや好意を持っているのではないか、人のことを好きなのではないか、言葉を尽くして思いを伝えたり、行動に移しているのではないかと思い、虚しくなりそうになった時、私自身のひとつの特徴に気づいた。
當我意識到到自己其實會有“是否只有我單方面地去渴求和討好別人、只有我自己有所行動時”,那樣的空虛感遍佈全身的特徵。
“人のために”なら、私は頑張れるんだ。
“只要為了他人,我就有努力的動力”。
どんなに忙しくても、自分のためには頑張れないことでも、誰かの笑顔のためなら頑張ることができるんだ。
無論多忙、就算不能為了自己而努力,只要他人能夠露出笑容,我就一定能做到。
昔から大切にやってきたファンイベント。ご飯を食べる時間もなくバタバタと1日3公演をこなしても、「幸せでした。ありがとう」という言葉を聞けたら、笑顔を見られたら、なによりの幸せを感じることができる。
一直以來我都非常珍惜我的粉絲線下會。就算一天要連趕三場,就連好好吃飯的時間都沒有;只要聽到「謝謝你あみた,我很幸福」、看到粉絲們所露出的笑容時,我就感到十分幸福了。
大切な人達の誕生日やお祝いごとは、誰よりも盛大にお祝いをしたい。祝福をしたいと思う。
重視的人們過生日時,我想將比起誰來說,都更為盛大的祝福給予他人為目標而這樣行動著。
尊敬する女優さんがポロッと仰っていた言葉があった。「私たちのお芝居は、生活は、”人を救うための貢ぎものだ”」と。
我十分尊敬的女演員曾說過「我們的演出及生活方式、”是為了因為我們的作為,而被此救贖的人們所呈現的敬意”」。
人に尽くす。自分のために生きられないなら、人のために耐える。人のために磨く。
我會為了他人拼盡全力。如果不能為了自己而活,至少為了他人而忍耐、磨練吧。
喜んでくれることが、うれしい。
他人感到高興,我也跟著開心。
笑ってくれることが、うれしい。
別人露出笑容,我也會因此高興。
だからここまで活動を頑張ってこられたのかもしれない。ひとりではなかったから。自分のためではなかったから。応援してくれる人、期待してくれる人がそばにいてくれたから。
所以,這或許就是我能夠如此努力去進行演藝活動的緣故吧。因為我並不孤單。因為這不是為了自己,而是身旁有著支持、並將他們自身的期許投射在我身上的人。
相手からどう思われているかを気にするのではなく、”思いやりの熱量”を高くし、これからも好きな人たちのために頑張れる自分でありたいと思った。
比起擔憂別人對我的看法,不如將“心中的情熱”加溫,繼續為了我所愛之人竭盡全力。
以上內文節錄自飾演丸山彩一役,前島亜美小姐「まごころコトバ」第三十四集。
個人翻譯,僅供參考。